平均的なヒトの脳には1,000億個以上もの細胞が存在します。これは天の川に存在する星の数とほぼ同数で、正に天文学的な数字と言えます。私たちが考えたり、感情を持ったり、周りとやり取りができるのは、これらの細胞があるからです。これらの細胞があるからこそ、私たちは生活していくことができます。脳細胞の主役となるのがニューロンです。これは分子的に特化した樹状突起を持ち、高い極性を持つ細胞で、情報伝達の開始を担い、ひいては脳機能を駆動します。しかし、ニューロン以外にも、オリゴデンドロサイト、ミクログリア、アストロサイトなどが適切な神経機能を維持するためのサポートをしています。これらは発生や疾患においても重要な役割を担っています。
脳細胞の構造や脳内の特定の細胞を識別するためにも、これらの脳細胞を染色することが重要です。マルチプレックス (多重染色) 技術による標識で、1度の実験で複数の分子標的を評価することができます。この技術によって、ネットワークや組織における個々の細胞の分子プロファイリングが容易になり、細胞機能のスナップショットが得られます。
脳の細胞には、ニューロン、アストロサイト、ミクログリア、オリゴデンドロサイトなどがあり、これらの細胞には固有の分子的特徴があります。NeuN (神経細胞)、GFAP (アストロサイト)、Myelin Basic ProteinやOlig2 (オリゴデンドロサイト)、Iba1 (マクロファージ/ミクログリア) などが有名です。これらの分子的特徴を検出する方法には、in situハイブリダイゼーションなど、相補的なRNAプローブを用いて転写物を検出する方法があります。抗体を用いる方法は、RNAを用いる方法に比べて感度や特異性の面で劣る場合がありますが、抗体でタンパク質を検出することに利点もあります。例えば、抗体ベースのタンパク質の検出では、特定のタンパク質の局在が分かることにより、その機能を推定することができます。他にも、細胞骨格タンパク質であるアストロサイトタンパク質により、アストロサイトの形態を明らかにできます。神経細胞の場合、NeuNは転写因子であるため核に局在します。MAP2やNFLなどの抗体を用いた染色により、樹状突起と軸索をそれぞれ標識し、神経細胞の構造を明らかにできます。特に神経細胞の場合は、細胞内タンパク質を深く掘り下げることで、細胞の構造や機能に関する新たな知見が得られる可能性があります。
神経細胞による情報伝達の中心単位であるシナプスの形成や維持、可塑性には、細胞接着分子やアダプタータンパク質、足場タンパク質など、様々なタイプのタンパク質が関与しています。神経細胞のシナプスには、Synaptophysin (シナプス前タンパク質) やPSD95 (シナプス後タンパク質) が濃縮されています。マルチプレックス技術を利用することで、解析対象のタンパク質と既知の神経細胞タンパク質の共局在を調べることができます。例えば、解析対象のタンパク質がPSD95などのシナプス後タンパク質と共局在する場合、これが後シナプスで機能することが示唆されます。
効率的に多重染色する方法はいくつかあります。最も簡単な方法の1つに、宿主種やアイソタイプ (ラビットIgG、マウスIgG1、ラットIgG2aなど) の異なる一次抗体を使用し、これらの一次抗体に特異的な、蛍光色素で標識した二次抗体を組み合わせる方法があります。また、一次抗体を特定の蛍光色素や酵素で直接標識する方法もあります。しかし、宿主種が同一であったり、検出に適した標識がされていなかったりと、抗体がこれらの方法に適さない場合も少なくありません。蛍光標識したチラミドによる染色とストリッピングを繰り返す、TSA-ストリッピングプロトコールを用いてこの問題を解決することができます。これらのアプローチには全て利点と欠点があります。脳には独特の繊細さや複雑さがあり、微量の標的を検出するのは困難ですが、より洗練された方法が登場してきています。例えば、DNAオリゴで標識した抗体を用い、シグナルを増幅することで、従来法を超える3-4種以上のタンパク質を同時に染色することができます。
マルチプレックス技術の発達と進化が継続しており、これは特にアルツハイマー病など神経科学の分野で浮上している重要な研究課題に適合しています。アルツハイマー病の病理学的特性の1つにアミロイド斑 (プラーク) が挙げられ、これは神経病理や臨床行動学的病理に相関しています。 近年、この神経変性疾患の病態への非神経細胞の寄与が盛んに研究されています。このような研究の多くを推進したのは、単一細胞レベルのトランスクリプトーム解析ができる、シングルセルRNA-seqなどの新技術です。この結果、この研究分野では最近になってミクログリアの分子的多様性が評価され始めました。
ミクログリアは脳の常在性マクロファージで、損傷したニューロンやプラークなどの破片を検出して除去します。健常状態と疾患状態のこれらの細胞を解析した結果、トランスクリプトームプロファイルの差異が明らかになり、異なるミクログリアが疾患の進行に重要な役割を果たしていることが示唆されました1,2。
トランスクリプトーム解析により、脳内のミクログリアの複雑さが明らかになりましたが、細胞で機能しているのはタンパク質です。この分野における現在の課題は、マルチプレックス技術を用いて特定のミクログリアと病態の関連性を明らかにすることです。例えば、疾患に関連する明確なトランスクリプトーム上の特徴として、DAM (Disease-associated microglia) が報告されています1。GPNMBは、炎症の抑制因子として機能する糖タンパク質をコードする遺伝子で、ADマウスモデルで高度に発現が増加することが分かっています。ADモデルマウスで高度に上方調節されています。抗体を用いてGPNMBを染色することで、他の脳細胞や病態と比較しながらGPNMBを発現するミクログリアを調べることができます。図1では、GPNMBタンパク質を発現するミクログリア (赤) がアミロイド斑 (青) を取り囲む様子が確認でき、このタンパク質が疾患の進行に直接関与することが示唆されています。トランスクリプトームのデータから示唆されたように、IBA1陽性ミクログリアのGPNMBを提示するサブセットが明確なDAMであることが分かります。組織や疾患との関連性において、プロテオミクスプロファイルによってDAMを特定することで、ミクログリアが疾患の進行に果たし得る特有の役割を明らかにすることができます。
アルツハイマー病モデルマウスの脳組織を免疫蛍光染色し、共焦点顕微鏡で解析しました。切片を Iba1/AIF-1 (E4O4W) XP® Rabbit mAb (Alexa Fluor® 647 Conjugate) (赤)、HS1 (D5A9) XP® Rabbit mAb (Rodent Specific) (Alexa Fluor® 488 Conjugate)(緑)、GPNMB (E7U1Z) Rabbit mAb (Yellow), and methoxy XO4 (青) を用いて染色しました。画像はワシントン大学Marco Colonna研究室のSimone Briochi博士のご厚意により提供いただきました。
新技術の進歩に伴い、抗体や転写産物を利用したマルチプレックス標識による診断技術は、分子レベルや細胞レベルのメカニズムにおける複雑なプロセス、および疾患を理解する上での重要性が増しています。脳科学の分野にも多くの課題が残されています。例えば、老化したヒトの脳では強い自家蛍光がみられ、蛍光を利用した解析は困難となります。このような組織では、S/N比が向上するオリゴDNAを利用したPCRなどの増幅技術により、解析が容易になる可能性があります。現在、多くの研究者は、標識の浸透やイメージングを促進するために、組織の薄切切片を作成するという手間のかかるプロセスを採用しています。しかし、全組織透明化技術や、光シート蛍光顕微鏡などの先進的なイメージング技術により、多重染色やイメージングが大幅に進歩しています。このような進歩により、脳科学に残された数多くの問題の解明が大きく進歩することが期待されています。
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